今回紹介するのは100年前の日本がポーランド孤児をシベリアから救出した話です。
ポーランドでは結構知られた話として有名です。
でも私も含め知らない日本人が多いのではないでしょうか?
ポーランドの人々は知っているのに、日本人が知らないのはなんだかさみしいですよね。
資料も豊富には残っておらず、当時救助されたポーランド孤児の人々も亡くなってしまいました。
それでもポーランドの人々は子どもへ伝え、孫に伝え、日本との絆の歴史を紡いできてくれました。
ぜひこの機会に歴史に埋もれた100年前の日本の功績を知ってもらえたら幸いです。
※注意点※
イラストはすべてAI技術を用いて筆者が作成した完全なオリジナルイラストです。
それ以外の写真などは実際の写真を引用サイトから使用しています。
オリジナルイラストはあくまで筆者が作成したものであり、その人や建物に対して忠実なものではない場合があります。
ポーランド孤児救出劇
「どうかシベリアにいるポーランド孤児を救ってください!」ポーランド孤児救済委員会のアンナ・ビェルケヴィチ女史は藁をもすがる思いで日本政府へお願いをしに来ました。
時代は第一次世界大戦後のヨーロッパ。独立を果たしたポーランドは一刻を争う問題を抱えていました。
それはシベリアにいるポーランド孤児たちの救助です。
独立運動で反旗を翻した結果、シベリア送りにされたポーランド市民は20万人にも及びます。最低気温がマイナス70度にもなる極寒の地では凍死や伝染病で亡くなる人が後を絶ちませんでした。
両親が先に亡くなるケースも多く、大量のポーランド孤児がシベリアで誕生してしまいます。極寒の地、身寄りもいない異国の地で、死と隣り合わせの生活が孤児たちを襲っていました。
明日も迎えられるかわからない孤児たちの危機的状況を打開しようとウラジオストクという所にポーランドは救済組織を結成します。
その会長が日本政府の扉をたたいたビエルケヴィッチ会長でした。
祖国ポーランドに帰れない理由
ここまで聞いた皆さんは、なぜ独立したポーランドに直接帰国させないのか疑問に思う人も多いと思います。
これには独立後に起こったソビエトとの戦争とロシア革命が理由になります。
ロシアとポーランドで行われた争いはシベリアも巻き込まれてしまいます。
そしてシベリアからポーランド行きの鉄道ルートがなくなってしまうのでした。
そんな戦争がいつ終わるのかわからない状況で、明日生きていられるかわからないシベリアの人々を待たすわけにはいきません。
特に悲惨だったのがポーランド孤児たちでした。そこで日本に近いウラジオストクというところでポーランド救済組織を結成し、一番弱っているポーランド孤児を優先して救助しようと世界中へ受け入れ先をお願いします。
しかしここでもポーランドは問題を抱えてしまうのでした。
受け入れ国0という現実
世界中にお願いしたのにも関わらず、救いの手を差し伸べようとした国は0です。
具体的にはフランスやイギリス、アメリカなどの国々に協力を求めました。
しかしどの国もそんな余裕が無く拒否されてしまいます。
のちにアメリカは救済支援に乗り出し日本と協力して孤児たちをポーランドに帰国させます。
アジアの島国に望みを託す
望みの綱は、アジアの島国、日本でした。
しかし当時のヨーロッパ諸国から見た日本の印象はあまり良いものではありませんでした。
「日本という国は利己的で自分の利益以外には協力しない野蛮な国だ。」このような印象を持っている人が多く、会長自身もそんな話があるのを知っていました。
しかしこうも聞いていました。日本は人道支援に積極的で今現在シベリアに兵士が駐留している。
日本でいうところのシベリア出兵がこれにあたります。
前評判や噂話にかまう暇はありません。会長は藁にも縋る思いで日本に助けを求めます。
ここで物語の冒頭に戻ります。
「どうかシベリアにいるポーランド孤児を救ってください!」ポーランド孤児救済委員会のアンナ・ビェルケヴィチ会長は藁をもすがる思いで日本政府へお願いをしに来ました。
100年前の誉れ
アンナ・ビェルケヴィチ会長の支援を求める声に100年前の日本領事の職員らは心から同情します。
そして最終決定を決めるため、アンナ女史を連れ東京で陸海軍大臣に会わせます。
陸軍大臣・田中義一、海軍大臣・加藤友三郎そして日本赤十字社に判断をゆだねられることに。
当時の日本は決して裕福な国ではありません。大戦直後というのもあり、人員や資金が足りない状況でした。
またロシアに敵視される懸念性もありました。
以上の理由は他国が拒否した理由ですが、日本も全く同じ状況だったのです。
しかし政府・日本赤十字社の決断はyesでした。
当時日本赤十字社の社長だった石黒ただのりは外務大臣にこう伝えます。
「本件は国交上並びに人道上まことに重要な事件にして、救援の必要を認め候につき、本社に置いて児童たちを収容して休養いたすべく候」
ここがポーランドの運命が大きく変わるターニングポイント、100年前の日本人が持つ人道への誉れが運命を大きく変えました。
この後の運命を突き動かしていくのは日本全員の誉れでした。
日本列島がゆりかごになった日
救援が決まり、ポーランド孤児たちはウラジオスクまで移動します。
移動の間の護衛として駐留していたシベリア出兵の日本兵が孤児たちを守ってくれます。
その後ウラジオスクの港から日本の敦賀港へ。
敦賀港で休息ののち、東京と大阪に移動して1年間の療養。
はじめは1920年の7月、その後は1922年まで合計8回に分けて765名の孤児たちが来日することになります。
敦賀港にはポーランド孤児を歓迎する日本人がたくさん集まってきていました。
ポーランドの国旗と日本の国旗の旗、赤十字社のロゴマークを渡し、友好の印を伝えます。
孤児のほとんどは洋服や靴が欠損していました。
これらもすべて日本が新調し全員にプレゼントします。
さらに浴衣や飴、お菓子を持ち寄りポーランドの孤児たちに渡します。
その後も支援は続きます。
散髪や歯科治療、音楽会、動物園見学までありとあらゆる歓迎で日本を出港する1年の間手厚くもてなしました。
皆さんの中には資金不足な日本でなんでこんなに手厚くもてなされてるんだ?と疑問に思う人も多いと思います。
この待遇の資金や物資の提供の大半は日本国民からの支援からきていました。
テレビなどなかった時代、メディアの力として新聞社が大きなトリガーでした。
この新聞社たちはポーランド孤児を取材したときに涙を流しながらこう約束したそうです。
「この子たちの為に、良い記事を書こうよ」
ここで下記サイトに掲載されていた文章を引用します。
新聞記者たちも、孤児たちのもとへ取材に訪れています。
カメラを向け、様々な質問をしました。
子供たちは通訳を通じて丁寧に答えていましたが、「パパやママは?」と訊かれると、年少者は首をかしげて沈黙し、年長者は、はらはらと涙を流します。
記者たちは「しまった」という表情になり、「すまなかったね」と頭を下げました。
無垢で純粋な子供たちの姿に涙ぐむ記者もいて、「いい記事を書こうよ」
この子たちのことを世界中が知ってくれるような、いい記事を」と記者たちが励ましあったと言います。
https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/98111/
新聞社の記事のおかげもあり、日本中がこの出来事に同情し、寄付という形で孤児たちの生活を支えてくれたのは間違いありません。
芸妓さんの話
ポーランド孤児が来日してから、毎日のようにいろんな団体が差し入れなどを持ってきてくれたと言います。
そんな団体の中で芸妓さんたちも来てくださいました。
芸妓さんらは手ぬぐいを持参してくれました。すぐ孤児たちにプレゼントすることに。
手ぬぐいをもらった孤児たちは嬉しそうにしていたそうです。
そんな純真無垢な様子を見て芸妓さんらは涙を流されたそうです。
自分の年下兄弟や子どもと重なる部分があったのかもしれませんね。
チフスの話
ポーランド孤児たちはほとんどが栄養失調や感染症に罹っていたので病院の力が必要でした。
医師と看護師数人でチームを結成し、つきっきりで孤児たちの看病をすることに。
その中でおそらくシベリアで感染菌を持ち込んだであろうチフスの流行が起きてしまいます。
より一層看病するドクターチームたち。
そんな過酷な状況でも、看護師さんらの意思は固く1つの共有事項がありました。
人は誰でも自分の大切な人が病気で倒れたら自分の身を犠牲にしてでも助けようとするものです。
彼らは兄弟すらいない孤独の身
誰かがその代わりをしなければ助けられません
それならば、私が姉の代わりになりましょう。
https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/98111/
看護師さんもチフスに罹ってしまい、残念ながら1人の看護師さんが殉職されてしまいます。
彼女たちの懸命な看護により孤児たちは全員回復しチフスの流行を抑えることができました。
園長の話
大阪の病院で療養にいる孤児たちは大阪にある天王寺動物園に招待されます。
そこで園長の計らいにより、象の背中に乗れる体験会を実施しました。
当時のポーランド孤児らは全員初めての経験だったそうです。
非常に興奮し大はしゃぎするポーランド孤児たち。
楽しい時間が過ぎ、帰る時間になりました。
次々と孤児たちが園長の元へ駆け寄ります。
ポーランド孤児たちはたどたどしくも精いっぱいの感謝を日本語で伝えます。
「ア リ ガ ト。」
それを聞いた園長は人目も憚らずその場で泣いてしまいます。
「こんなにもけなげで純粋な子供たちがこの間まで生と死の瀬戸際にいたのか・・!!」
「祖国ポーランドに帰っても身寄りがいないかもしれない子供たちがこんな笑顔を見せてくれるのか・・!!」
貞明皇后の話
新聞社が良いトリガーとなり、ポーランド孤児の話は全国へ広がっていきます。
そしてついに貞明皇后が行啓に訪れるまでに。
そこで4歳になるゲノヴェハちゃんというポーランド孤児の境遇を聞かれます。
貞明皇后はそこである少女の孤児の話を聞きます。
ゲノヴェハちゃんの父親は貴族でした。
しかしシベリアで赤軍に捕まります。
捕まった様子を見た母親はその場で自殺。
4日間、木の実を食べながら彷徨っていたところをアンナ女史が結成した救済委員会に保護されます。
4歳の幼い孤児の境遇を聞いた貞明皇后は涙を浮かべながらこう語りかけます。
あなたは一人ではありませんよ。
あなたがここに来られたのは、あなたのお父様やお母様がわが身を犠牲にしてお守りくださったからなのですよ。
だから一生懸命に生きていくのです。
命を大切にして健やかに成長するのです。
それがあなたを守ってくださったご家族とこの病院(日本)の願いなのですよ。
https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/98111/
そして貞明皇后は多額の寄付をして帰られたそうです。
冒頭でも書きましたが、当時の日本は第一次世界大戦後というのもあり財力が乏しい国でした。
実はポーランド孤児を救出しようか思案していた時、日本政府はお金を負担できないということで日本赤十字社に相談したという経緯があります。
そして赤十字社の人道支援の予算というのは、基本寄付・募金や会費、政府の一時金で賄います。
この予算の比率は定かではありません。しかし確実なのは日本政府からの一時金が無かった、あるいは著しく期待できなかったと個人的に思います。
ということは残りの寄付・募金・会費でカバーする必要があるんです。
100年前の会費は正直期待できないと思います。
ということはポーランド孤児への予算というのは、本当に日本全体から集まった寄付や募金で成立してることになります。
いろいろ調べましたが、この件に関して確定的なソースを見つけることができませんでしたが、消去法で行くとこの説が最も近しい答えだと考えます。
他の戦勝国も救済を拒否したのは、日本と同じく国の予算を救済に回せなかったのが大きい(ロシアからの敵視もだが)理由です。
まさか日本がその予算のリカバーを国民たちからの募金や寄付で賄うなんて当時の社長であり救済を決めた石黒忠悳も想定外だったんじゃないかと思います。
当時の日本人にとって、目の前で困っている人の気持ちになれる人が多かったんでしょうね。
その困っている人が家族や知り合いなどで忖度しない日本人の誉れがここにあったんじゃないかと推察します。
まさに日本列島がポーランド孤児たちのゆりかごでした。
ポーランド孤児救出から100年後の現在に至るまで
ポーランド孤児たちは帰国しても身寄りがいない者が多く、アンナ女史が用意した施設で過ごし成長します。
成長した孤児たちで「極東青年会」を設立。
自らの体験を踏まえ孤児院を開設することになります。
日本からポーランドへ
順風満帆かと思われた矢先、第二次世界大戦がはじまり、再度ポーランドは侵略されてしまいます。
西をドイツに東をソ連に侵略されたポーランドは再び祖国が無くなるという辛い経験をしなくてはなりませんでした。
特にドイツはナチスの非人道的な活動でゴリゴリにポーランド人を追い詰めます。
極東青年会の孤児院がレジスタンスやユダヤ人の隠れ蓑になっているのではないかと疑念を抱き勝手に踏み込んできます。
その窮地を救ったのが日本の大使館員でした。
孤児院委ナチスの秘密警察が来るたびに、日本大使館員が駆け付け、身元の保証をしてくれました。
当時日本とドイツは日独伊三国同盟を結んでいました。
その為、いくら非人道的行為が日常茶飯事のナチスも迂闊なことができません。
身元の保証をしている証拠に孤児院らに日本の歌を歌わせました。
この日本の歌はポーランド孤児が日本にいたあの1年間の中で学び覚えていた日本の歌でした。
ここでも日本が救出した出来事が役に立ったのでした。
ポーランドから日本へ
今度はポーランドが日本を助けてくれます。
阪神淡路大震災と東日本大震災で被災した子どもたちをポーランドへ招待し、手厚くもてなしてくれました。
ポーランド国内の日本
現在、ポーランドは再建されすっかり平和な国になっています。
ポーランド国内では日本語を学ぶ学校が複数存在します。
そしてワルシャワ大学(日本でいう東大)には「日本学科」という学科が存在します。
他の国も日本語学科というのはありましたが、日本学科を外国にあるというのは大変珍しいことです。
日本語を勉強するというより日本自体を研究の対象にしてしまうワルシャワ大学の日本学科は倍率20倍もある非常に狭き門としています。
ポーランド孤児たちの意思
ポーランド孤児たちは全員亡くなってしまいました。100年以上過ぎているので、おそらく日本もいないと思います。
ただポーランド孤児たちのあの日助けてくれた記憶や感情というのは次世代にきちんと継承されています。
それが日本への恩返しでなくても、人を助ける道に進んでいるポーランド人もいます。
日本では歴史に埋もれている部分が多く、当時東京の病気療養場所であった福田会には当時の資料が保管されていなかったそうです。
福田会にそのような歴史があったことを知らされたのは、当時駐在していたポーランド大使でした。
ポーランド大使のロドヴィッチ氏がたまたま日課のジョギング中に、ポーランドでは有名な福田会の表札を発見。
その後ポーランド孤児たちを休ませてくれた福田会か確認をとったところ判明することになったのです。
この記事も冒頭でも書きましたが、ポーランド人が知っていて日本が知らないのはなんだかさみしいですよね。
当事者たちがいなくなってしまった今こそ多くの日本人に、日本とポーランドの関係について知ってほしいです。
そしてこれからは日本とポーランドで次世代に語り継いでいきたいものですね。
参考URL一覧
【手を差し伸べたのは日本のみ…歴史に埋もれた知られざる“ポーランド孤児”救出の軌跡】 https://www.fnn.jp/articles/-/118322
【100年前の日本人が示した人道精神 シベリアのポーランド孤児救出から1世紀で記念式典】 https://www.sankei.com/article/20230927-2
【日本赤十字社HP】
https://www.jrc.or.jp/
【ポーランド孤児を救った日本人】
https://www.worldfolksong.com/national-anthem/topics/poland-orphan-in-japan.html
【100年前のシベリアからの救出劇! 765人のポーランド孤児と日本人の奇跡の物語】 https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/98111/
画像引用
【福井テレビ】
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